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2026年8月12日水曜日

戦艦大和の元乗組員から聞いた体験談|小学生の頃に聞いた戦争の記憶

戦艦大和に乗っていた方から聞いた、忘れられない話

この話は、私が小学生の頃に、戦艦大和に乗艦していた方から聞いた体験談です。

その方は、戦艦大和が撃沈される前の時期に大和へ乗っていたそうです。のちに乗組員の大きな入れ替えがあり、その方は艦を降りることになりました。結果として、それが命拾いにつながったのだと話してくれました。

この記事は、私が幼い頃に聞いた話を、長年の記憶をたどって記録したものです。史実資料として断定するものではなく、一人の元乗組員の方から聞いた証言の断片として読んでいただければ幸いです。


終戦記念日が近づくと思い出す話

毎年、終戦記念日やお盆が近づくと、太平洋戦争に関する特集番組がテレビで放映されます。

年々、その内容は深くなり、当時の記録や証言が丁寧に掘り下げられているように感じます。

そんな時期になると、私は小学生の頃に聞いた、ある方の忘れられない話を思い出します。

それは、戦艦大和に乗っていた方が語ってくれた、映画や教科書だけでは知ることのできない、戦争の現場にいた人の話でした。


見た目は立派、でも実情は違っていた

その方は、戦艦大和に乗艦していた経験を持つ方でした。

乗った当初、大和は巨大で堂々たる姿を誇り、装備も立派で、まさに「不沈艦」と呼ばれるにふさわしい威容だったそうです。

乗艦した瞬間、

「すごい船だ」

と思ったと語っていました。

けれど、実際に中に入ってみると、見た目から受ける印象とは違う部分もあったそうです。

攻撃に必要な砲弾は、十分にあるようには見えなかった。燃料も、思うように使える状態ではなかった。
その方の印象では、見た目は立派でも、実戦で十分に戦える状態とは思えなかったそうです。

もちろん、大和そのものはとても堅牢な船で、敵の攻撃を受けても簡単には沈まなかったといいます。
その頑丈さには、乗っていた本人も驚かされたそうです。


艦を降りたことが命拾いに

ある時期、乗組員の大きな入れ替えがあったそうです。

その方は、その時に大和を降りることになりました。

結果的に、それが命拾いになりました。

しかし、艦を降りたからといって、平穏な日々が戻ったわけではありません。

大和の実情は軍の重大な機密とされていたのでしょう。
その方は、厳しい情報統制の中で帰省し、終戦まで特高警察に監視され続けたそうです。

大和のことを口外することは許されず、沈没後も、その方が知っていたことは語られることなく、長い間、胸の内にしまわれていたのだと思います。


映画では語られない大和の姿

その方は、戦艦大和の最後を描いた映画について、

「あれは嘘っぱちだ」

と語っていました。

その言葉が、私は今でも忘れられません。

もちろん、私はその場にいたわけではありません。
その方が実際に最後の沈没場面を見たわけでもありません。

けれど、その方は、自分が乗っていた時の大和の状態を知っていたからこそ、映画のように勇ましく反撃しながら沈んでいく姿には、違和感があったのだと思います。

総入れ替えの後に、どれほど武器や砲弾が積まれたのかは分かりません。
けれどその方は、少なくとも自分が乗っていた時の大和は、十分に反撃できるような状態ではなかったのではないか、と感じていたようでした。

そして、こうも言っていました。

「日本は、戦艦大和とその乗組員を見捨てた」

幼い私には、その言葉の意味をすべて理解することはできませんでした。
それでも、その言葉の重さだけは、子ども心にも深く残りました。


銃撃戦のような恐怖

その方は、大和での応戦についても話してくれました。

大和の武器庫には、砲弾の箱がたくさん並んでいたそうです。
けれど、中身が入っていた箱は、信じられないほど少なかったと話していました。

ただし、近くからの攻撃に備えるための武器や弾薬は、ある程度積まれていたそうです。

その方の記憶では、敵の攻撃が近づいてくると、大和側も機銃などで応戦し、まるで銃撃戦のような状況になったそうです。

けれど、乗組員全員が勇猛果敢に戦えたわけではありません。

攻撃が始まると、恐怖に駆られて逃げ惑う人もいたそうです。
そして、戦死した人の中には、そうして逃げ回っていた人もいたと語っていました。

その方は、それを見て、

「逃げ回ると、銃弾に当たる」

と直感したそうです。

だから、自分は絶対に持ち場を離れなかった。
どれほど怖くても、その場にとどまり、応戦し続けたのだと話していました。

一度だけ、自分の体のすぐ横、わずか一センチほどのところを銃弾がかすめて飛んでいったことがあったそうです。

その瞬間、

「もし逃げていたら、間違いなく死んでいた」

と思ったといいます。

だからこそ、どんなに怖くても、逃げなかったのだそうです。


逃げた人を責めるのではなく

けれど、その方は、逃げ回った人たちを「臆病者」とは言いませんでした。

むしろ、

「それは寿命だったのだ」

と語っていました。

普段は勇敢で、皆の士気を高めるような人でも、ある時突然、恐怖に襲われて逃げ回り、銃弾に倒れることがあったそうです。

戦場では、人の心がどう動くか分からない。
どれほど気丈な人でも、恐怖に飲み込まれる瞬間がある。

その姿を見て、その方は、

「戦死するのも、また寿命なのだ」

と感じたのだと話してくれました。

その言葉もまた、幼い私の心に深く残りました。


誰にも語られていない話

この話は、他では誰にも語られていないそうです。

なぜ、その方が小学生だった私にその話をしてくれたのか、今でも分かりません。
どういう話の流れで聞いたのかも、はっきりとは覚えていません。

けれど、話の内容があまりにも衝撃的だったため、今でも忘れることができません。

不思議なことに、その方は、まるで私に向かって語りかけているように感じました。

「この話を覚えておいてほしい」

そう言われたわけではありません。

それでも、私は長い間、この話を忘れずにいました。


忘れられない記憶として

戦争の記憶は、語られなければ少しずつ風化していきます。

資料に残る歴史もあります。
テレビ番組や本で語られる証言もあります。

けれど、名も残らず、記録にもならず、ただ誰かの記憶の中にだけ残っている話もあるのだと思います。

この話が、史実のすべてを語っているとは思いません。
けれど、戦艦大和に乗っていた一人の方が、そう感じ、そう語ったという記憶は、私にとって大切なものです。

だからこそ、終戦記念日が近づくこの時期に、記録として残しておきたいと思いました。


読者の皆さまへ

皆さんは、戦争について、ご家族や身近な方からどんな話を聞いたことがありますか。

戦艦大和が撃沈された当時の生還者のお話や、攻撃に加わったアメリカ兵側の証言を取り上げた特集番組も、これまでに放送されたことがあるようです。

そうした記録や証言と照らし合わせると、私が小学生の頃に聞いた話も、また一つの断片として見えてくるものがあるのかもしれません。

戦争を知る人が少なくなっていく今、こうした小さな記憶も、語り継ぐ意味があるのではないかと思います。

もし、皆さんのご家族や身近な方から聞いた戦争の記憶があれば、ぜひお聞かせください。

平和への願いを、共に分かち合えたら嬉しいです。

願わくば、争いのない世界が訪れますように。
終戦記念日が近づくたび、そう祈らずにはいられません。

戦艦大和の元乗組員から聞いた体験談|小学生の頃に聞いた戦争の記憶

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