2026年8月12日水曜日

戦艦大和の元乗組員から聞いた体験談|小学生の頃に聞いた戦争の記憶

戦艦大和に乗っていた方から聞いた、忘れられない話

この話は、私が小学生の頃に、戦艦大和に乗艦していた方から聞いた体験談です。

その方は、戦艦大和が撃沈される前の時期に大和へ乗っていたそうです。のちに乗組員の大きな入れ替えがあり、その方は艦を降りることになりました。結果として、それが命拾いにつながったのだと話してくれました。

この記事は、私が幼い頃に聞いた話を、長年の記憶をたどって記録したものです。史実資料として断定するものではなく、一人の元乗組員の方から聞いた証言の断片として読んでいただければ幸いです。


終戦記念日が近づくと思い出す話

毎年、終戦記念日やお盆が近づくと、太平洋戦争に関する特集番組がテレビで放映されます。

年々、その内容は深くなり、当時の記録や証言が丁寧に掘り下げられているように感じます。

そんな時期になると、私は小学生の頃に聞いた、ある方の忘れられない話を思い出します。

それは、戦艦大和に乗っていた方が語ってくれた、映画や教科書だけでは知ることのできない、戦争の現場にいた人の話でした。


見た目は立派、でも実情は違っていた

その方は、戦艦大和に乗艦していた経験を持つ方でした。

乗った当初、大和は巨大で堂々たる姿を誇り、装備も立派で、まさに「不沈艦」と呼ばれるにふさわしい威容だったそうです。

乗艦した瞬間、

「すごい船だ」

と思ったと語っていました。

けれど、実際に中に入ってみると、見た目から受ける印象とは違う部分もあったそうです。

攻撃に必要な砲弾は、十分にあるようには見えなかった。燃料も、思うように使える状態ではなかった。
その方の印象では、見た目は立派でも、実戦で十分に戦える状態とは思えなかったそうです。

もちろん、大和そのものはとても堅牢な船で、敵の攻撃を受けても簡単には沈まなかったといいます。
その頑丈さには、乗っていた本人も驚かされたそうです。


艦を降りたことが命拾いに

ある時期、乗組員の大きな入れ替えがあったそうです。

その方は、その時に大和を降りることになりました。

結果的に、それが命拾いになりました。

しかし、艦を降りたからといって、平穏な日々が戻ったわけではありません。

大和の実情は軍の重大な機密とされていたのでしょう。
その方は、厳しい情報統制の中で帰省し、終戦まで特高警察に監視され続けたそうです。

大和のことを口外することは許されず、沈没後も、その方が知っていたことは語られることなく、長い間、胸の内にしまわれていたのだと思います。


映画では語られない大和の姿

その方は、戦艦大和の最後を描いた映画について、

「あれは嘘っぱちだ」

と語っていました。

その言葉が、私は今でも忘れられません。

もちろん、私はその場にいたわけではありません。
その方が実際に最後の沈没場面を見たわけでもありません。

けれど、その方は、自分が乗っていた時の大和の状態を知っていたからこそ、映画のように勇ましく反撃しながら沈んでいく姿には、違和感があったのだと思います。

総入れ替えの後に、どれほど武器や砲弾が積まれたのかは分かりません。
けれどその方は、少なくとも自分が乗っていた時の大和は、十分に反撃できるような状態ではなかったのではないか、と感じていたようでした。

そして、こうも言っていました。

「日本は、戦艦大和とその乗組員を見捨てた」

幼い私には、その言葉の意味をすべて理解することはできませんでした。
それでも、その言葉の重さだけは、子ども心にも深く残りました。


銃撃戦のような恐怖

その方は、大和での応戦についても話してくれました。

大和の武器庫には、砲弾の箱がたくさん並んでいたそうです。
けれど、中身が入っていた箱は、信じられないほど少なかったと話していました。

ただし、近くからの攻撃に備えるための武器や弾薬は、ある程度積まれていたそうです。

その方の記憶では、敵の攻撃が近づいてくると、大和側も機銃などで応戦し、まるで銃撃戦のような状況になったそうです。

けれど、乗組員全員が勇猛果敢に戦えたわけではありません。

攻撃が始まると、恐怖に駆られて逃げ惑う人もいたそうです。
そして、戦死した人の中には、そうして逃げ回っていた人もいたと語っていました。

その方は、それを見て、

「逃げ回ると、銃弾に当たる」

と直感したそうです。

だから、自分は絶対に持ち場を離れなかった。
どれほど怖くても、その場にとどまり、応戦し続けたのだと話していました。

一度だけ、自分の体のすぐ横、わずか一センチほどのところを銃弾がかすめて飛んでいったことがあったそうです。

その瞬間、

「もし逃げていたら、間違いなく死んでいた」

と思ったといいます。

だからこそ、どんなに怖くても、逃げなかったのだそうです。


逃げた人を責めるのではなく

けれど、その方は、逃げ回った人たちを「臆病者」とは言いませんでした。

むしろ、

「それは寿命だったのだ」

と語っていました。

普段は勇敢で、皆の士気を高めるような人でも、ある時突然、恐怖に襲われて逃げ回り、銃弾に倒れることがあったそうです。

戦場では、人の心がどう動くか分からない。
どれほど気丈な人でも、恐怖に飲み込まれる瞬間がある。

その姿を見て、その方は、

「戦死するのも、また寿命なのだ」

と感じたのだと話してくれました。

その言葉もまた、幼い私の心に深く残りました。


誰にも語られていない話

この話は、他では誰にも語られていないそうです。

なぜ、その方が小学生だった私にその話をしてくれたのか、今でも分かりません。
どういう話の流れで聞いたのかも、はっきりとは覚えていません。

けれど、話の内容があまりにも衝撃的だったため、今でも忘れることができません。

不思議なことに、その方は、まるで私に向かって語りかけているように感じました。

「この話を覚えておいてほしい」

そう言われたわけではありません。

それでも、私は長い間、この話を忘れずにいました。


忘れられない記憶として

戦争の記憶は、語られなければ少しずつ風化していきます。

資料に残る歴史もあります。
テレビ番組や本で語られる証言もあります。

けれど、名も残らず、記録にもならず、ただ誰かの記憶の中にだけ残っている話もあるのだと思います。

この話が、史実のすべてを語っているとは思いません。
けれど、戦艦大和に乗っていた一人の方が、そう感じ、そう語ったという記憶は、私にとって大切なものです。

だからこそ、終戦記念日が近づくこの時期に、記録として残しておきたいと思いました。


読者の皆さまへ

皆さんは、戦争について、ご家族や身近な方からどんな話を聞いたことがありますか。

戦艦大和が撃沈された当時の生還者のお話や、攻撃に加わったアメリカ兵側の証言を取り上げた特集番組も、これまでに放送されたことがあるようです。

そうした記録や証言と照らし合わせると、私が小学生の頃に聞いた話も、また一つの断片として見えてくるものがあるのかもしれません。

戦争を知る人が少なくなっていく今、こうした小さな記憶も、語り継ぐ意味があるのではないかと思います。

もし、皆さんのご家族や身近な方から聞いた戦争の記憶があれば、ぜひお聞かせください。

平和への願いを、共に分かち合えたら嬉しいです。

願わくば、争いのない世界が訪れますように。
終戦記念日が近づくたび、そう祈らずにはいられません。

2026年7月18日土曜日

ラジオ体操だけでは物足りない?シニアが自衛隊体操にも挑戦した話

 

※この記事は、2019年に書いた記事を読みやすくリライトしたものです。

ラジオ体操に自衛隊体操をプラスしてみました

YouTubeのお気に入りにラジオ体操を登録していたところ、「自衛隊体操」という動画が表示されました。

見てみると、なんだか昔懐かしい、学校の体育の時間にしていた準備運動に似ています。

「もしかすると、昔していた準備運動は自衛隊体操に近いものだったのかな?」と思いながら、興味をひかれて見てみました。

そこで、ラジオ体操第1・第2・第3に続けて、自衛隊体操もライブラリに保存。順番に通してやってみることにしました。

ラジオ体操だけでは、私には少し物足りなく感じることもあり、あまり汗をかきません。

ところが、自衛隊体操まで続けると、じんわりと汗をかき、体をしっかり動かした感じがします。

私はシニア世代ですので、お手本の動画のように体が曲がったり、きびきび動いたりはできません。

それでも、無理をせず、自分のできる範囲で体を動かすと気持ちがよいものです。


自衛隊体操はラジオ体操より動きが大きく、少し負荷も感じます。最初からお手本どおりにしようとせず、痛みやふらつきがあるときは無理をしないことが大切ですね。

動画は、この記事を書いた2019年当時に、私が見ながら体操していたものです。現在も視聴できるので、そのまま紹介しています。

懐かしいラジオ体操第3

ラジオ体操第3も、私にとっては懐かしい体操です。

なぜなら、高校の体育の時間にしていた記憶があるからです。

当時の体育の先生が、ラジオ体操第3について話していたことも覚えています。

先生は、「大きなレコードから小さなレコードになったため、第3まで収録する余裕がなくなったらしい」と聞いたと話し、ずいぶん残念がっていました。

今となっては、それが正式な理由だったのかは分かりません。

けれど、先生が少し怒ったように話していた様子まで、ラジオ体操第3と一緒に懐かしく思い出します。

運動不足を感じたら、まず体を動かす

私がラジオ体操を始めた理由は、運動不足を解消するためでした。

最初は続けていても、だんだん慣れてくると、ついさぼってしまいます。

そして体を動かさない日が続くと、やはり体が重く感じられます。

涼しくなって体を動かしやすい季節になったことをきっかけに、もう一度運動を始めることにしました。

ラジオ体操だけの日があってもよし。少し余裕がある日は、自衛隊体操までしてみる。

毎日完璧に続けようと気負わず、その日の体調に合わせて体を動かすことが、長く続けるコツなのかもしれません。

2026年7月15日水曜日

「もったいない魚」を見て思い出した、昔の瀬戸内の魚たち

テレビで見た「もったいない魚」から思い出した、昔の瀬戸内海の魚たち。ボラやベラ、三番叟と呼んでいたイシダイ、ボラのぼっかけ、ベラとおねしょの言い伝えなど、日生の昔の暮らしを振り返ります。

2018年11月末頃だったでしょうか。

朝、テレビを見ていると、「もったいない魚」という言葉が紹介されていました。

「もったいない魚って、何じゃろう?」

そう思いながら見ていると、画面に映ったのは、私にとって見覚えのある魚ばかりでした。

瀬戸内海で育った私が子どもの頃には、魚屋さんに普通に並んでいた魚たちです。

最近は見かけなくなったので、

「もう獲れなくなったんかな」
「魚が少なくなったんかな」

と思っていました。

ところが、獲れないのではなく、獲れても売れにくく、お金にならないため、店頭に並ばなかったり、廃棄されたりする魚もあると知りました。

昔から食べてきた私には、本当にもったいない話でした。

昔は身近だったボラ

テレビに出ていた魚の中には、ボラもありました。

ボラの旬は、10月頃から1月頃までの秋から冬です。

チヌも同じ頃においしくなる魚で、父が元気だった頃には、チヌとボラが一緒によく釣れていました。

父が釣って帰った魚を家でさばき、ボラもチヌも普通に食卓へ並んでいました。

ボラは、三枚におろして皮を引き、刺身にしたり、塩こしょうをしてフライやムニエルにしたりすると、おいしく食べられます。

私の記憶では、皮をきれいに引くのがポイントでした。

皮を取って料理すると、気になるにおいも少なくなり、あっさりとした白身魚として食べられました。

私は苦手だった「ボラのぼっかけ」

新鮮なボラが手に入ると、うろこや内臓を取り、丸のままぶつ切りにして、うしお汁にする食べ方もありました。

その汁を、ボラのぶつ切りごと、どんぶり飯の上からぶっかけて食べるものを、私たちの地域では「ボラのぼっかけ」と呼んでいました。

昔のお年寄りは、この食べ方を好んでいました。

ただ、正直に言うと、私はボラのぼっかけが嫌いでした。

骨や皮の付いたままのボラが、どんぶり飯の上にどんと載っているのが、子どもの私には食べにくかったのです。

昔からある料理だからといって、誰もが好きだったわけではありません。

それでも、ボラのぼっかけは、海の近くで暮らしていた昔の人たちの食べ方として、今も私の記憶に残っています。

家庭や地域によって、作り方や呼び方には違いがあるかもしれません。

熱帯魚のように色鮮やかな魚

昔の魚屋さんには、今よりもいろいろな魚が並んでいました。

青や赤の模様がきれいなベラや、日生で「三番叟」と呼んでいたイシダイなど、まるで熱帯魚のような魚もありました。

子どもの頃には、そうした魚も特別珍しいものではありませんでした。

瀬戸内海で獲れた身近な魚として、普通に魚屋さんに並び、家庭で食べられていたのです。

いつの頃からか、ボラやベラ、三番叟のような魚を、身近な魚屋さんで見かけることが少なくなりました。

旬の時期に市場へ行けば、今でも並んでいることがあるのかもしれません。

それでも、昔のように、当たり前に魚屋さんで見かける魚ではなくなったように感じます。



ベラは「おねしょの薬」

私が子どもの頃、ベラは「おねしょの薬になる」と言われていました。

私はよくおねしょをしていたので、家族からベラをたくさん食べさせられたものです。

本当におねしょに効いたのかどうかは分かりません。

ただ、昔はこうした言い伝えを信じて、子どもに食べさせる家庭もありました。

私にとってベラは、青や赤の模様がきれいな魚であると同時に、よくおねしょをしていた子どもの頃を思い出す魚でもあります。

懐かしいような、少し困ったような思い出です。

海辺にたくさんいたボラの子

昔は海面をのぞくと、ボラの子が海岸沿いを群れになって泳いでいました。

埋立地にある我が家の近くでは、潮が満ちてくると、海水に乗って溝の中まで群れで入ってくることもありました。

私の子どもたちは、網ですくったり、おもちゃ屋さんで売っていた小さなモリで突こうとしたりして遊んでいました。

今考えると、海と暮らしがとても近かった時代です。

魚は、店で買って食べるだけのものではありませんでした。

すぐそばの海を泳ぎ、釣って帰れば家でさばき、家族みんなで食べる、とても身近な存在でした。

昔は普通だった魚が「もったいない魚」に

ボラやベラ、三番叟のような魚は、昔の瀬戸内では珍しい魚ではありませんでした。

それぞれの魚に合った食べ方があり、家庭の食卓に普通に並んでいました。

ところが、今では売れにくい、値段が付かない、お金にならないという理由で、店頭に並ばない魚もあるそうです。

獲っても売れなければ、漁師さんにとっても商売にはなりません。

食べる人が少なくなれば、魚屋さんも仕入れなくなります。

そうして、昔は身近だった魚が、少しずつ食卓から消えていったのかもしれません。

「もったいない魚」という言葉をテレビで見た時、私は父が釣って帰ったチヌとボラ、魚屋さんに並んでいた青や赤のベラ、三番叟と呼んでいたイシダイを思い出しました。

安い魚だから、おいしくないわけではありません。

見た目や名前だけでは伝わりにくくても、昔の人は、その魚に合った料理の仕方を知っていました。

今では食べなくなった料理もありますし、私のように子どもの頃から苦手だった食べ方もあります。

それでも、瀬戸内海で昔から食べられてきた魚や、家庭に伝わっていた言い伝え、海辺で遊んだ記憶は、昔の暮らしの記録として残しておきたいと思います。

※この記事は、2019年1月に書いたものを、昔の瀬戸内の魚や暮らしの記録としてまとめ直しました。

2026年7月5日日曜日

下戸だけど憧れる!瀬戸内海のリゾート Villa Stella で見た夢の暮らし

瀬戸内海の美しい景色を望むリゾートコテージ「Villa Stella」で、焼き肉パーティーとプライベート花火大会に招かれました。ワインセラーや露天風呂、サウナ、ミニプールまでそろった夢のような空間に、下戸の私も思わず憧れてしまいました。

ちょっとセレブな甥っ子から、なんとも素敵なお誘いを受けたのは、2025年のある日のことでした。

「焼き肉パーティーと、プライベート花火大会をするから来ない?」

場所は、我が町にあるリゾート施設 Villa Stella
そこはまるで夢の中に出てくるような、素敵なコテージでした。

思わず、

「え〜?この景色、本当に我が町なの?」

と声を上げてしまった私。

すると甥っ子が、こんなふうに教えてくれました。

「地元に住んでいると、良さが分からないでしょう。今、瀬戸内海は世界的にも有名なスポットなんですよ。海があって、島があって、海に出ても島々が見える。こんな景色が楽しめる場所は、世界でもなかなかないんです。日本の中でも、瀬戸内海ならではの魅力なんですよ」

なるほど……。

私にとっては、ごくごく普通の、当たり前すぎる景色。
だからこそ、その良さに気づいていなかったのかもしれません。

いなか者の私は、見るものすべてが珍しくて、コテージの中を案内してもらうことにしました。



まず1階で目に飛び込んできたのは、なんとワインセラー。
しかも中には、ワインがぎっしり。隙間なく並んでいて、思わず目が点になりました。

「うわぁ……すごい」

ワインセラーだけでも驚いたのに、さらに各部屋には露天風呂、シャワー、トイレ付き。

これには、思わず“ビックリポン”でした。

露天風呂は外から見えないように工夫されていて、バスタブもとてもおしゃれ。
まるでマリー・アントワネット気分になれそうな、優雅な雰囲気でした。

さらに、焼き肉コーナー、ミニプール、サウナ、水風呂まであります。


海を眺めながらゆったり座れるチェアも置かれていて、どこを切り取っても絵になる空間。

「これはインスタ映え間違いなしだわ」

そんなふうに思いながら、空間づくりの工夫に感心してしまいました。

さて、ここでふと思ったのです。

「我が家にもマネできるものがあるとしたら……ワインセラーかな?」

ちょっと調べてみると、ワインセラーにもいろいろあるようです。
1本だけ冷やせる簡易的なワインクーラーから、こちらのコテージにあるような本格的で高価なワインセラーまで、種類は実にさまざま。

実は私は、お酒が飲めない下戸です。
それでも、こんな素敵なワインセラーを見ると、

「いいなぁ、こんなのが家にあったらおしゃれだなぁ」

と、つい憧れてしまいました。

とはいえ、私が買うなら、せいぜい1本用の簡易タイプでしょうか(笑)

もし上等なワインを買ったとしても、ワイングラスで優雅に飲むというより、平盃で香りを楽しみながら、チビリチビリと舐めるくらいかもしれません。

そして残ったワインは、料理酒として使う……なんてことになりそうです。

日本酒も、上等なものを料理に使うと、なんとなく味が良くなる気がします。
それなら、上等なワインを使えば、料理ももっとおいしくなるかもしれませんね。

ただ、ワイン好きの方からすると、これは許しがたい使い方かもしれません。

でも、ワイン好きの方なら、ワインセラーはぜひ揃えたい一品ではないでしょうか。

眺めているだけでも気分が上がる。
そんな特別感が、ワインセラーにはあるような気がしました。

※この記事は、2025年に訪れた Villa Stella での思い出をもとに、読みやすく再編集したものです。

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2026年7月3日金曜日

孫3人と大原美術館へ。夏休み最後の倉敷おでかけ

孫たちの夏休みも、もう終わりに近づいた頃。
孫3人を連れて、岡山県倉敷市にある大原美術館へ行ってきました。

我が家からは、車でだいたい1時間半ほど。
ちょっとしたドライブを兼ねた、夏休み最後のおでかけです。

行く前は、6年生の孫が、

「美術館なんか、どうでもいい」

というようなことを言っていました。

まあ、子どもからしたら、遊園地やゲームの方が楽しいと思うのも無理はありません。
けれど実際に入ってみると、その孫が思ったよりもじっくり作品を見ていたのです。

これは、ちょっと意外でした。

子どもの頃に見た「本物の絵」の感動

大原美術館は、倉敷美観地区の近くにある歴史ある美術館です。
エル・グレコ、クロード・モネ、アンリ・マティスなど、教科書や美術の本で見たことのあるような作家の作品が収蔵されています。

私が子どもの頃、書道の師匠に連れられて大原美術館へ行ったことがあります。
その時の感動は、今でも忘れられません。

教科書で習った芸術家の、本物の作品がそこにある。

「えっ、モネの睡蓮があるの?」
「ピカソの絵もあるの?」
「岸田劉生の麗子像も?」

子どもの私には、それが本当に大きな驚きでした。

テレビや本で見る絵と、実際に目の前で見る絵は、やっぱり違います。
色の深さや筆の跡、絵の前に立った時の空気まで、何とも言えない迫力がありました。

書道の師匠が教えてくれたこと

その時、書道の師匠がこんなことを言っていました。

「絵を見ることは、書道の作品を作る時にも参考になる」

子どもの私は、最初はよく分かりませんでした。
でも、師匠は絵の構図や余白、線の流れ、墨の濃淡に通じるものを、ひとつひとつ話してくれました。

絵画と書道は、別々のもののようで、どこか通じるものがある。
そのことを、大原美術館で教えてもらった気がします。

久しぶりに行くと、展示の印象も変わっていた

大原美術館へは、忘れた頃に何度か行っています。
けれど、今回行ったのは、私の子どもが小中学生だった頃以来かもしれません。

久しぶりに訪れると、

「こんな作品があったかな?」
「前と少し雰囲気が変わったな」
「この展示、昔は気づかなかったな」

と思う場面がいくつもありました。

中庭の大きなオブジェや、棟方志功の作品、工芸に関する展示など、若い頃とは違う目で見ることができました。

美術館は、同じ場所に行っても、こちらの年齢や経験によって見え方が変わるものなのですね。

孫の絵と美術館の作品が重なって見えた

中には、私の一番年下の孫が、家で自由に描いている絵を思い出すような作品もありました。

大人の目で見ると、子どもの絵は「落書き」に見えることがあります。
でも、美術館に飾られている作品の中にも、自由な線や思いきった色づかいのものがあります。

それを見て、思わず孫に言いました。

「自信を持ってええよ。あんたが描いとる絵も、なかなか面白いで」

少し変なほめ方だったかもしれません。
でも、子どもの自由な表現は、案外、大人が思っている以上に大切なものなのかもしれないと思いました。

エル・グレコの「受胎告知」を見ながら

エル・グレコの《受胎告知》の前では、孫が解説を読んでいました。

これは、キリスト教の聖母マリアに、神の子を身ごもることが告げられる場面を描いた宗教画だよ。信仰の物語として描かれた絵なだから、現代の感覚だけで見ると不思議に感じるよね。

私が少し説明すると、孫はきっぱりと、

「絶対ありえん!」

と言いました。

子どもらしい反応に、思わず笑ってしまいました。

でも、そこから「昔の人は、こういう物語を大切にして絵に描いたんだな」と考えるきっかけにもなります。
美術館は、絵を見るだけでなく、歴史や宗教、昔の人の考え方にふれる場所でもあるのだと思います。

子どもと行く美術館は、急がない方が面白い

本当は、ひとつひとつの作品をゆっくり見て回ると、一日では足りないくらいです。

けれど、子ども連れだと、時間配分も大切です。
あまり長くなりすぎると疲れてしまいますし、閉館時間もあります。

それでも今回は、孫たちが思ったよりも作品を見てくれました。
「美術館なんかどうでもいい」と言っていた孫が、じっと絵の前で立ち止まっている姿を見ると、連れて来てよかったなと思いました。

大原美術館は、親子三代で楽しめる場所

大原美術館は、大人だけが楽しむ場所だと思っていました。
けれど、今回孫たちと行ってみて、子どもにも子どもなりの感じ方があるのだと分かりました。

有名な絵を見て驚く子。
不思議な絵に立ち止まる子。
解説を読んで疑問を持つ子。

感じ方はそれぞれですが、それでいいのだと思います。

私自身も、子どもの頃に書道の師匠に連れて行ってもらった大原美術館の記憶が、今でも残っています。
もしかしたら、今回の孫たちにも、何かひとつくらい心に残るものがあったかもしれません。

夏休み最後の倉敷おでかけ。
孫3人との大原美術館は、思っていた以上に楽しい一日になりました。

※展示内容や開館時間は変わることがあります。おでかけ前には、大原美術館の公式情報を確認してから行くのがおすすめです。

2026年6月30日火曜日

ご高齢のお母さまへお誕生日や母の日プレゼントに、スマホという選択

 ご高齢のお母さまへお誕生日や母の日のプレゼントに、スマホはいかがでしょうか。

花やお菓子ももちろんうれしいものですが、離れて暮らす家族とつながれるスマホも、今の時代らしい贈り物かもしれません。

「もう年だからスマホなんて無理」
「80歳を過ぎてから始めるのは難しい」

そんなふうに思われる方もあるかもしれません。

でも私は、90歳を過ぎたご婦人がスマホを使っている姿を見て、本当に驚いたことがあります。

90代のご婦人がスマホでLINEをしていた話

数年前、私は90代半ばのご婦人と相席する機会がありました。

その方は、スマホで写真を撮り、LINEでご家族に連絡していました。

「今、ここに来ています」
「こんなことをしています」

そんなふうに、ご家族へ一生懸命に文字を打っておられたのです。

聞いてみると、ご家族から専用のスマホを渡されていて、出かける時にはLINEで連絡するように言われているとのことでした。

最初は「義務付けられている」と聞くと、少し堅苦しく感じるかもしれません。

でも私は、その姿を見て思いました。

ご家族が心配してくれること。
出かけた先を知らせる相手がいること。
「連絡してね」と言ってもらえること。

それ自体が、きっと嬉しいことなのではないかと。

そのご婦人は、ゆっくりゆっくり、でも一生懸命にスマホを使っておられました。

その時、私はまだガラケーでした

実はその時、私はまだガラケーでした。

90代のご婦人がスマホで写真を撮って、LINEで家族に連絡している。

それを見た私は、心の中で思いました。

「負けとんがな!」

それで一念発起して、私もスマホを買うことにしました。

スマホを買いに行った時に言われた言葉

スマホを買おうと思ってお店へ行くと、店員さんにこう聞かれました。

「スマホを買って、どうするんですか?」

私は少し戸惑いました。

「どうするって、どういう意味ですか?」

すると店員さんは、

「いや、スマホで何がしたいんですか?」

と言われました。

私は答えました。

「写真や動画を撮りたいんです」

すると、少し不思議そうな顔をされて、それならばと機種を紹介してくださいました。

もちろん、店員さんとしては、使い方に合った機種を案内するために聞かれたのだと思います。

けれど、その時の私は少し寂しく感じました。

「年を取った人には、スマホは難しいと思われているのかな」
「何に使うか、ちゃんと言えないと買いにくいものなのかな」

そんな気持ちになったのです。

同級生も同じようなことを言われたそうです

この話を同級生にすると、その人も似たような経験をしていました。

スマホを買いに行った時に、

「何に使うんですか?」
「どうするんですか?」

と聞かれて、思わず引いてしまったそうです。

そして、

「じゃあ、いらないわ」

と言って帰ってしまったと話していました。

お店の方に悪気はなかったのかもしれません。

でも、言葉のかけ方ひとつで、スマホを始めようとしていた気持ちがしぼんでしまうこともあります。

高齢者にとって、スマホを買いに行くこと自体が、少し勇気のいることです。

だからこそ、最初のひと言はとても大切だと思います。

80歳以上のスマホ契約は、事前確認がおすすめ

その後、80歳になるご婦人が、

「スマホを使ってみたいんだけど、この歳では無理かな」

と話しておられました。

私は、90代半ばのご婦人がスマホでLINEをしていた話をしました。

するとその方は、さっそくスマホを買いに行かれたのです。

ところが、お店では年齢のこともあり、ご家族の確認が必要だと言われたそうです。

ご家族は遠方におられるとのことで、とても残念そうにしておられました。

携帯電話の契約には、料金の支払いや機種代金の分割なども関係します。

お店側が慎重になる理由も分かります。

ただ、ご本人に使う気持ちがあるのに、手続きのところで気持ちが折れてしまうのは、少しもったいないなと思いました。

今は、携帯会社や契約内容によって、80歳以上の方には家族同伴をすすめられたり、家族へ確認の電話が入る場合もあるようです。

ですから、ご高齢の方へスマホをプレゼントする時は、先にお店へ確認しておくと安心です。

スマホは、見守りにもなる

スマホは、ただ電話をする道具ではありません。

写真を撮る。
LINEで連絡する。
家族から写真を送ってもらう。
出かけた先から「今ここにいるよ」と知らせる。
災害時に連絡を取り合う。

高齢の方にとって、スマホは家族とのつながりにもなります。

使い方をたくさん覚える必要はありません。

最初は、

「電話に出る」
「LINEを見る」
「写真を撮る」
「家族に一言送る」

それだけでも十分だと思います。

プレゼントするなら、設定まで一緒に

母の日にスマホをプレゼントするなら、本体を渡すだけでなく、最初の設定まで一緒にしてあげると喜ばれると思います。

文字を大きくする。
よく使う連絡先を分かりやすくしておく。
LINEの使い方を紙に書いておく。
困った時に押す場所を決めておく。
充電の仕方を一緒に練習する。

こういう小さな準備があるだけで、スマホへの不安はずいぶん減ります。

スマホそのものよりも、

「分からなくなったら聞いてね」
「一緒に練習しよう」
「写真を送ってくれたらうれしいよ」

そんな言葉の方が、もしかしたら一番のプレゼントかもしれません。

人生100年時代、スマホは若い人だけのものではない

人生100年時代と言われます。

80歳を過ぎても、90歳を過ぎても、新しいことを始める方はおられます。

もちろん、無理にスマホを持たせる必要はありません。

でも、本人が「使ってみたい」と思っているなら、その気持ちは大切にしてあげたいものです。

高齢だから無理。
今さら遅い。
どうせ使えない。

そんなふうに決めつけるのではなく、

「何から始めようか」
「まずはLINEだけやってみようか」
「写真を撮ってみようか」

そんな声かけができたらいいなと思います。

ご高齢のお母さまへの母の日のプレゼントに、スマホ。

それは、物を贈るというよりも、家族とつながる時間を贈ることなのかもしれません。

2026年6月26日金曜日

毛沢東語録を「読みなさい」と言ったお嬢様学校|禁書の時代に教わったこと

あの時代、毛沢東語録は“触れてはいけない本”として多くの学校で禁止されていました。

けれど私の通ったお嬢様学校は、真逆のことを言ったのです。
「買いなさい。読みなさい。生徒を信じています」
その一言で、私の世界は大きく揺れました。
プロレタリア文学、小林多喜二、里村欣三、そして理不尽な大学入試。
今振り返ると、あの高校で過ごした日々は、時代の空気を真正面から吸い込んだ貴重な体験でした。


県下屈指のお嬢様学校で起きていたこと

県下屈指のお嬢様学校でありながら、私の高校には、今思えば驚くような教育方針がありました。

当時は学生運動が下火になりつつあったとはいえ、書店の入り口には毛沢東語録が山積みになり、ベストセラーのように売れていた時代です。多くの学校では「学生運動の再燃につながる」として、毛沢東語録の購入も読書も禁止されていました。私が高校2年か3年の頃のことです。

ところが、我がお嬢様学校は違いました。

「皆さん、毛沢東語録を買いなさい。そしてしっかり読みなさい。
ただし勘違いしないでください。中国がどんな思想を持っているのか、正しく理解しなさい。
私たち教員は、生徒を信じています。読むなと言えば、かえって気になるものです。」

先生方はそう言い切ったのです。

家に帰って話すと、親は驚きました。「どうしてそんな本を?」と。
しかし、私が「学校の先生がこう言った」と伝えると、父は母に向かって「わかった。お前は何も言うな」とだけ言いました。


教科書に載らないプロレタリア文学の授業

国語の授業では、教科書に載っていないプロレタリア文学についても隠さず教えてくれました。作家たちが当時どのような迫害を受けたのか、小林多喜二が取り調べ中に死亡し、荼毘に付した後の遺体から大量の畳針が出てきたことなど、衝撃的な事実も学びました。

先生はこう言いました。

「小林多喜二の『蟹工船』、読む機会があれば読んでみなさい。」

私は探して『蟹工船』を読みました。しかし当時の私は、

「これのどこが国家に反逆する文章なの? 国民の志気を下げるの?」

と、正直よく分かりませんでした。


里村欣三と「我が町」の名前が出た瞬間

授業では里村欣三の話も出ました。四国出身と偽っていたため、警察は長く正体をつかめなかったそうです。ところが実は、我が町の出身だったのです。

先生が地元の名前を口にした瞬間、ぼんやり聞いていた私も思わず目が覚めました。

プロレタリア作家の出身地が知られると、親兄弟まで取り締まりの対象になるため、迷惑をかけまいと四国と偽ったこと。招集令状が来たときも、周囲に迷惑をかけないよう出征し、そのまま戦死したこと。そんな話を教わりました。

もしこの授業がなければ、私は『蟹工船』を読むこともなかったでしょう。


プロレタリア文学を「ふるい」に使った大学入試

さらに驚いたのは、プロレタリア文学を“ある目的”で利用していた大学があったことです。

その大学は、入試の国語で

「プロレタリア文学について知っていることを述べよ」

という問題を出し、答えた受験生を点数に関係なく全員不合格にしたのです。理由は「思想に問題あり」。

当然、私も一緒に受験した友人たちも、十数人まとめて不合格になりました。

後に進学した短大で、その大学の元教授がこう話してくれました。

「学生運動が盛んな頃、どう食い止めるか悩んだ末の苦肉の策だった。
今思えば馬鹿げたことだが、当時は本気でそう考えていた。すぐに廃止した。」

時代とは、なんと不思議で不条理なものかと今でも思います。


苦痛だった高校生活が、今は誇りになっている

当時の私は、背伸びしてやっと入った高校で、言葉遣いもがさつで、周囲になじめず苦痛ばかりでした。

けれど今振り返ると、あの学校は時代に流されず、堂々と「生徒を信じる」と言い切り、隠さず教えてくれた。そんな教育を受けられたことを、今は誇りに思っています。

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戦艦大和に乗っていた方から聞いた、忘れられない話 この話は、私が小学生の頃に、戦艦大和に乗艦していた方から聞いた体験談です。 その方は、戦艦大和が撃沈される前の時期に大和へ乗っていたそうです。のちに乗組員の大きな入れ替えがあり、その方は艦を降りることになりました。結果として、それ...